|
名古屋市の中心地である中区栄町。そのど真ん中に"呉服町通り"と呼ばれる通りがある。全盛期には呉服関係の店が何百件とあったが、今やモリシマただ一軒であり、その唯一残った繊維屋の代表が深田社長である。もともと深田社長自身は「蔦茂(つたも)」という料亭のひとり息子であり、モリシマは夫人の実家であった。それが現在はモリシマの社長に深田氏が、「蔦茂」は夫人が女将となって切り盛りしている。 「まさか、お互いの実家を継ぐことになるとは思いもしませんでしたよ」と深田氏は笑いながら言った。かといって、お互い自分の実家を継ぐ気もなかった。惣領娘とひとり息子の結婚は周囲が認めてくれず、勘当同然に家を飛び出して選んだ先がアメリカだった。昭和46年のことである。このアメリカ行きが偶然にも深田社長をモリシマへと導くことになるのだ。
昭和46年頃といえば、まだ1ドル360円の時代で、日本は高度成長期に突入した頃。当時、日本ホテル協会が窓口となって、アメリカの企業が日本人学生の受け入れをし、日本の産業の復興を手助けしたり、新しく日本の産業を担う人材を育成するというプログラムが実施されていた。大学卒業後には親の反対を押し切ってふたりで生活を始めるつもりだった深田社長は、日本企業の給料じゃあ食べていけないと思っていたこともあり、海外ならとこのプログラムに応募したのである。アメリカでの就職が決まったのは大学を卒業したときだった。さっそくふたりで現地へ赴き、そこで同時に結婚もした。 「インダストリアル・トレーニングというマネージメントの研修見習い生ということで、ザ・ケイラー・コープというホテル会社へ入ったんです。僕のホテルでの仕事はオペレーション業務でした。ホテルの立地調査をはじめ資金調達、会計の仕組みなどトータルにホテルの経営を学び、ホテルの資産価値をあげることが第一の仕事なんです。 そうしてホテルの経営を商品化するんです。ホテルの経営を商品化することで受託経営もできるわけです。 物事ってこういうふうに考えるのかとホテルの経営を通していろいろなことを勉強しました。今も非常に役立っていますよ」 明るくサラッと語る深田社長だが、いきなり失敗続きだったという。ケイラーのオーナーが深田社長を使って企業のイメージアップを図りたいと、ジャパニーズ・フード・フェスティバルというイベントを開催した。そうしたら、どういうわけか食中毒患者がいっぱい出てしまったのだ。 「社長夫妻も入院したんです。大変なイメージダウンになりました(笑)。さすがに僕もしょげましてね。上司がちょっとこの街には住みにくいだろうと、つぶれかかったモーテルの支配人として行かないかと言ってくれまして、飛びつきました。そうしたら今度は火事で燃やしちゃったんですよ、ホテルを(笑)」
初っぱなからトラブル続きで誰でもめげてしまうものだが、深田社長はチャレンジをやめなかった。ケイラーではホテル事業の他に病院給食や自動販売機の管理もしており、その部門をまかされた深田社長は原価計算から仕入れまですべて担当し、コストを抑えながら効率アップを図って評価を上げた。また日本からオーランドへのパッケージツアーに営業をして、宿泊をすべてケーラーホテルにすることにも成功するなど、次々とアイデアを出して収益につなげていったのである。
「アメリカで学んだことは、何をするにも必ず目標設定があるということ。そして自分は必ずできると信じてチャレンジすることですね。トライする精神はすごく評価されますから。だからめげることなく次へ次へと進んでいけました」
|
|
|